
「巨人の星」じゃなくて「ワンピース」
一人一人がみんなのヒーロー。
個人の集合体スイミー戦略!
それが鶏ヤロー!
スイミーも仲間を集めれば

マグロ(大手)になれる

一人一人がみんなのスイミー
鶏ヤローは共に勝つ!
経歴(面白くない割に長いです。すみません。)
初めまして!代表の和田成司と申します。
僕は千葉県の野田市で育ちました。
キッコーマン醤油の工場がある香ばしい良い香りがする町でした。
軽自動車で頑張って浜崎あゆみを爆音で流してる人達はだいたい友達で
地元の偏差値32くらいの高校を卒業しました。
一般サラリーマンの父と山崎パンでパートで働く母。
兄弟は兄と姉が居て末っ子でした。
家庭環境は大して良くはなく、父のギャンブル癖が原因で
両親の喧嘩が絶えないゴミ屋敷で強制的に免疫力をつけながら育ちました。
子供の頃は両親を憎んだ時もありましたが
今ではすごく両親に感謝しております。
高校生になり焼肉屋でアルバイトを始め、そこで一緒に働いてた同級生の「ゆうたくん」との出会いが、
僕の起業の初めのキッカケになります。
ゆうたくんとは、バイク乗り回したり、改造したり、盗んだりする事しかなく、田舎丸出しのマイルドヤンキーが僕とゆうたくんの青春でした。
ゆうたとは毎日の様に一緒に居ました。
いつも通りバイトが終わり、ゆうたの家で僕は、
将来は一緒に焼肉屋をやろうよ!と話してました。
「焼肉屋って楽しくね?」
「うちの店長めちゃ楽しそうじゃん」
「満員電車に乗りたくない」
「従うとは負ける事だ」
みたいな感じです。
僕たちは朝まで語り合ってました。
「人は死んだらどうなるんだろ?」
「将来の夢や人生について」
そんな事を話してたら、一度きりの人生です。同じ黒い服を着て、同じ時間に、同じ方向を向いて
毎日同じ電車に乗っている大人や人生にはなりたくないと、自然に思えました。
次の日でした。
もちろん一緒に遊んでた僕たち。
「次、どこ行く?」
「ゆうたの家行こうぜ!」
この行く途中で、ゆうたはバイク事故に合いました。
懸命な治療を受けましたが一週間後にゆうたは亡くなりました。
「ゆうたの家行こうぜ!」なんて言わなければ、、。
そして、事故の前日に語り合った「人は死んだらどうなるのだろうか?」「将来の夢や人生について」
感慨深いモノがありました。
当時は悲しくて悔しくてずっと泣いてました。
お葬式でも大きな声で赤ちゃんみたいに泣いていたのを覚えています。
将来どうしようか。
生きるってなんだろうか。
そんな事を考えるには充分なキッカケでした。
僕はゆうたと約束した「将来は焼肉屋になろう」と決意しました。
さて。
僕は、高校卒業後、飲食業界で最も行かなくて良い調理師学校に、しっかり合コン目的で遊びに行き、21歳で千葉県の流山市にある焼肉屋に就職しました。
僕は、ここの社長さんに商いの大切な事を全て教えて頂きました。挨拶やトイレ掃除、マネジメントや、マーケティング。
船井論語の人生偏に至っては、確か31項目あるのですが、どーせお前はアホだから読むだけじゃ意味ないとか言って、1項目につき作文300字を課せてくれました。
因みに。その後、どーせお前はアホだから一回読むだけじゃ意味ないとか言って、31項目×3ターンやってます笑。
その他にも、斎藤一人さんとか、鬼頭宏昌さんや稲盛和夫さんの読んだ本の抜粋だったり、
とにかく色々教えてくれました。
僕はこんな生活を6年間やり続け思考回路が肯定的に良くなって行きました。
余談ですが当時の社長に言われた名言をここの残しておきます笑
「お前は絶対に変わる。何故かと言うとオレは諦めないからだ」
「歯の矯正をするが如く、お前の思考を変える」
「何度でも言う」
「お前は、オレの言う事を聞いた方が良い。何故かと言うと、お前よりオレの方が、お前の事を考えているからだ」
当時の社長さんの歳と今の僕は同じ歳くらいです。
僕が今、20歳前半の社員さんに、当時の様に教えて上げられているか?と言うと出来てません。
名前は書けませんが、佐藤浩社長!!
本当にありがとうございました。いまでもこれからも感謝しております!!
もう、その会社は平城苑さんと合併して、もう無いのですが、僕の会社は、そこで出会ったアルバイトさんが店長やったり、焼肉屋さんの隣の車屋さんのこんさんが入社してくれたり、当時の副店長のムラが役員やってくれてたり、あの会社があったからこそ、今の僕があります。本当に感謝です。
さて。27歳で焼肉屋さんの会社を、しっかり円満退社した僕。
独立の1号店目は千葉県の柏駅の雑居ビル3階の焼肉屋の居抜きからスタートしました。
自己資金300万。国金から借り入れ300万。初期投資は400万。
会社名は、亡くなったゆうたくんとのアルバイト時代を思い出して、ゆうたing=ゆうだing=遊ダイニングと名付けました。
オープンの日、お肉屋さんの社長(通称・おやっさん)がお祝いでお金をくれた時、嬉しくて泣きました。
独立は夢でしたから、熱く込み上げてくる想いがありました。
本当にお客さんは来るのか?ソワソワしながら窓から外を覗いたり、
ポスティング行ったり、
看板の電気のスイッチを店内からカチカチしたりした日々。
初めてのお会計は5600円でした。今でも覚えてます。
家賃25万。初月が300万。そこから400万前後売るお店になりました。
僕が居酒屋業態を始めたのは、その1年後くらいです。
市川市の本八幡駅で、憧れの一家ダイニングさんの本拠地だからと言う理由で場所を決めました。
ここで、今の鶏ヤローの原型となる鮭ヤローを作りました。
本八幡の居酒屋は、場所で失敗していて家賃27万。250万前後しか売れないお店でした。
もちろん、一家さんは繁盛してました。僕はあえなく4年後に閉店しました。
因みに、この本八幡店の前に亀有駅で焼肉屋を出店したのですが3か月で撤退して、
僕の記憶からは消し去って、当時の事は何も覚えてません。
この頃、出店の失敗や、社員に350万持ち逃げされたりと、精神的にもキツく
家に帰るお金もなく、店泊の日々が続き、シンクでシャワーを浴びるのが日課でした。
しかし、この期間があったからこそ仲間の大切さや、理念や価値観の共有が大切なんだと素直に思えました。
資金繰りも厳しく、月末は支払いの事で頭もいっぱいでしたから、
僕も一時は死のうかと思いましたが、ゆうたの事を思い出すと諦められない力が湧いてきました。
出店したいけどお金がない。
何とかしたい、そんな想いの時、取引先の肉屋の社長がやっている埼玉県の松原団地の居酒屋を委託しないか?と話を頂きました。
社長さんは、家賃30万。売上200万みたいな厳しいスコア状態でした。
もちろん。即答でやります!と伝え、次の日にはムラとお店の近くのカフェで作戦を練ったのを覚えてます。
「とにかく忙しい店にしよう!」
「もう、儲けなんかどうでも良い!」
「まずは、何が何でも毎日満席の店にしよ!」
そんな事を話し合いました。
この時、出来たのが角ハイボール50円、サワー、カクテル、焼酎99円、生ビール280円のプライスレンジでした。
この、松原団地店はホームセンターで板を買ってきて、拡大カラーコピーで看板を自分たちで作りました。両面テープで。
初期投資は酒屋さんの支払いを遅らせて頂き、その50万を投資に当てました。(今となっては50万なんか投資する金額ではなく飲み代ですが笑)
結果は初月で700万。翌月は800万。そんなスコアが続き、遊ダイニングは息を吹き返しました。
この頃、遊ダイニングにムラとこんさんが入社してくれていて、本当に、この2人の力が強かったのだと思います。
一人じゃ何もできない。仲間が居るからこそ夢は叶う。腹の底からそう思いました。
これがキッカケで、居酒屋業態を店舗展開する事になれました。
因みに僕の今までの出店は、しっかり初期投資かけた順から売上の低い店となってます。
たぶん、僕はお金使うと極端に頭使わないだと思います笑。
そんな感じで、あと楽しくノリでやってます。おわり。
株式会社鶏ヤロー(旧社名:遊ダイニングプロジェクト) 代表取締役 和田 成司